教育問題・大学論

23年度後期を目前に前期の講義を振り返る

23年度後期の開始を目前にして、前期の講義を振り返ってみます。今年度の前期講義は、「教育史1」と「教育学概論1」を2コマ担当しました。「ゼミ」と「基礎演習2」もありましたが、ここでは講義科目に絞ります。「教育史1」は教育学科(一部他学科生含む)の3・4年生中心に70名、必修の「教育学概論1」は教育学科1年生全員を中心に、再履修生若干名を含めて2コマ合計150名程度でした。

「教育史1」では近世社会における教育機関(藩校・寺子屋等)や民衆の読み書き能力等について講義し、明治以降の近代市民社会形成を目指す教育と、天皇制公教育への変質を、地域や学校設立・就学を入れながら講義しました。毎回学生諸君にはリアクションペーパを書いてもらっています。これがとても面白く勉強になります。1872年の「学制」を講義した際には「いまだに『学制序文』が誰の手になるのかがわからない」ことに驚きがありました。

「教育学概論1」ですが、実は久しぶりの担当でした(2020年にオンラインで担当)。対面型では、5年ぶりになります。講義の構想段階で悩んだ挙げ句、「1年生が中心なので、現実の日本の教育で起こっている問題を積極的に採り上げそれを教育学的に解説する」という方式を採用しました。教育のもつ問題のむずかしさと、それにも関わらず、学生諸君が教育(学)へ関心をもち続け、今後の教育学勉強に役立ててほしいと思うからです。親子関係・虐待・いじめ問題・貧困問題・発達障がい・子どもの権利、等々の問題を、時にはビデオで、時には新聞記事で解説してきました。その時々に私の勉強の量も相当でした。終えた今、寂しさとホッとした安心感に浸っています。

毎回のリアクションペーパですが、これがとても学生諸君の成長を感じさせるものでした。講義の初期には「自分が教師になったら・・」という記述が目立ち、とても安易に「教師や個人の努力で問題が解決できる」としていたスタンスも、次第に「個人の努力だけではなく、社会の仕組み・社会の変革に繋がる個人の努力」という視点に変わって言ったように思います。例えば「貧困問題」などでは、「政府による予算配分(防衛費の倍増計画)の見直しを鋭く迫る」意見もありました。

私が担当する「教育学概論」は「1」だけですので、1年生諸君とはこれでお別れです。2年時は講義を担当しませんので私が定年を迎える最終年度(まで無事私が務めれば)に3年生としてお会いすることになります。そのことを伝えた7月の最終回の講義で、学生諸君から拍手を頂戴したことは忘れられない思い出となりました。今年度9月以降の後期は「ゼミ」と「基礎演習2」だけになりますが、頑張りたいと決意を新たにしています。

 

 

児童虐待問題のとらえ方
 社会の、教育問題や子育てに対する影響を考える時に、最も典型的な例が児童虐待である。児童虐待は、一見すると非常に単純な問題にみえ、「白黒」「善悪」がはっきりみえるように思える。
 例えば、ある虐待事件の例。「無職の男が酒を飲んで、血の繋がっていない内縁の妻の連れ子に暴力を振るい、瀕死の重症を負わせて、近隣住民の通報によって警察に逮捕された」という事件。こういう例では、おそらく誰もが「共謀な男=悪」と受け取るはずである。
 しかし、このニュースでは何一つとして問題点が浮き彫りになっていない。
 先日、ある大学の講義でこの例を使用して、「問題の本質に迫るためには、『何故』という問いをぶつけていく必要がある、それが学問の入り口であり、教育学を学んでいく一歩となる」と講義した。
 先の事件では、例えば、次のような問題点を解明する必要がある。「何故、男性は無職だったのか」「何故、酒を飲んでいたのか」「何故、内縁の妻と出会い血縁の無い子どもと同居していたのか」「子どもに暴力を振るっていた時、母である妻は何をしていたのか」「何故、母親は男から子どもを守れなかったのか」「男の、こうした暴力は日常的だったのか」「日常的だったとすれば、母親は何故子どもをつれて逃げることをしなかったのか」等々。
 虐待・子どもへの暴力は、絶対に許されないとしても、こうした「何故」という「問い」は、この事件・児童虐待の本質に迫る問いの立て方であるはずである。例えば、調査の中で、こうした「問い」に対し、「男性が職を探しても得られない事情があった」「一家が貧困な状態にあった」とする。「暴力は凄まじく、妻は男に完全に支配されていた関係だった」とする。「この男自身も成長過程で親から凄まじい虐待を受けていた」とする。
 そうすると「共謀な男=悪」という構図は見直しを迫られ、加害者である男に被害者性を見いだす必要が出てくる。
 児童虐待問題は、社会の多様な要因をそこに含み込んでいることは確かである。
 社会の多様な要因が、学校を経ずに、崩壊した家庭を経由してストレートに子どもたちに持ち込まれることも確かなのである。
 言い換えると、健全な家庭生活を営むことがいかに子どもに取って大切なのかを知ることになるのである。
 2022年度の私のゼミは、石井光太さんの名著を検討する予定である。
ロシア軍によるウクライナへの軍事侵攻に断固として抗議する。
ロシア軍がウクライナに軍事侵攻した。どのような理由・理屈も成立しない。直ちにロシア軍はウクライナから撤兵すべきだ。
ロシア軍は、世界の世論に反して、2月24日に軍事行動に踏み切り、ウクライナへ軍事侵攻した。「平和維持」「ロシア人の保護」が目的である。この背景には複雑な歴史事情があることは理解している。
しかし、だからと言って武力行使が認められることは絶対ありえない。「理由があれば暴力が許される」となるからだ。ロシアの人、世界中の人、私たち日本の大人たちが、それを子どもに説明できるのだろうか。2022年2月に生じたロシアの軍事行動で全く罪も無い人々が数百人も殺され、傷つけられたのだ。そのことを私たちは次世代の子どもたちに伝えることができるのだろうか。今こそ、世界中で「戦争反対」の声を起こすべきである。
同時に私たち日本人が教訓とすべきことを思い起こす。今回の軍事行動が「平和維持」という理由だったことだ。「平和維持」「自国の防衛」のため「軍隊が必要」「戦争はやむを得ない」という理屈は、やはり単なる「屁理屈」だということでしかない。今回のロシアの軍事行動をみれば理解できる。
かつて、評論家の故加藤周一先生が「九条の会」の講演会で「平和の維持のために何が必要でしょうか?平和の維持のために軍隊=戦争が必要なのか?そうではないでしょう。平和のためには軍隊と戦争は不必要なのです。」と喝破された。今、私たち世界の、そして日本の、大人たちは子どもたちに対して「どのような状況であっても戦争はダメ・暴力は絶対ダメ」を主張すべき時なのである。
あらためて繰り返したい。どうな状況であれ、どんな事情であれ、ロシア軍は直ちにウクライナから撤兵し、罪の無い人々の生命を奪う行為を即時中止すべきだ。「戦争大反対」である。
今こそポスト・コロナ、ウィズ・コロナの教育を考える時である。

「コロナ禍の最中なのにポスト・コロナを語るとは不謹慎」と怒られそうであるが、「闘いの最中にあって『戦後』を展望しておく」ことは歴史の教えるところでもある。戦後の設計は、戦中からなされていた。だとすればこの2年間に及ぶ「コロナとの闘い」から我々は何を教訓として受け止め、ポスト・コロナに引き継いで行くべきなのだろうか。

苅谷剛彦氏は「新型コロナウィルスがもたらす危機が私たちの『日常』に変更を迫る深刻さ」を直視し、「地に足を着けた教育論議の必要」を強調する。その中で「大学がどのような教育と学習を提供するかできるか」に問題を収斂させる。大学教育の問い直しによって「コロナ禍は、日本社会が築き上げてきた学問や教育の強靱さ・しなやかさ(resilience)を試す機会」であるととらえている。

『中央公論・22年2月号』は、アフターコロナの大学論を8大学のトップにインタビューした記事があり面白かった。コロナ禍で直面した困難・苦労は当然大学により異なっているが、「オンライン授業」を簡単に全面的に否定するのではなく、その長所を見据え「知の伝達」における学習効果をしっかり見据え、コンピテンシーをどのように育成するかを真剣に考えている点などはかなりの大学で共通しているようだ。その場合、学問の教授を「授業」という狭い枠内だけで捉えるのではなく、部活動やサークル活動を位置づけ直し、こうした課外活動を「正課外活動」と位置付ける関西学院大学の取り組みなどは参考になった。

我が大東文化大学は板橋校舎と東松山校舎の2つのキャンパスに分かれていることがデメリットであると捉えられてきた。実際、キャンパス間の移動が一時間以上かかることをみれば、学生諸君のカリキュラム履修制限がある。実際、1限に板橋校舎の授業を受け、2限に東松山校舎での授業を受けることは不可能である。学生諸君にはデメリットでしかない。しかし「オンデマンド型授業」の経験を導入することで両校舎の距離はなくなり、移動時間が省略できる。学生にとっては極めて有効かつ効果的にカリキュラムを構築できるのではないかと考える。「オンデマンド型授業でできること」「オンデマンド型ではできずに対面型で実現できること」をいまこそしっかり総括すべき時である。

 

大学の現状とそれを憂いている人への好著2冊
大学の現場は病んでいる。意味不明の仕事が多く、貧困な予算の下で補助金を獲得するためのあらゆる競争に巻き込まれ、行政から次から次へと来る「改革」という名の圧力にさらされている。1991年に大学設置基準は「大綱化」されたはずであるが、それ以降の30年は「改革」のために走り続けさせられてきた。大学の現場は、教育よりも様々な申請書類を書かされる場と化し、研究に費やす時間がなかなかとれないという現状である。そんな中で、政府が主張する「世界の大学ランキング゙上位に日本の大学を」などというスローガンはただ虚しい限りである。
そうした大学の現状に対し、心ある大学人たちは本当に危機感を抱いて憂いていることと思う。こんな教育と学問研究の現状では、一体日本の将来はどうなってしまううのかと。
そうしたときに出た、本当に名著がある。
友人で京都大学の教授である駒込武さんが編著者になって各国立大学・公立大学の現状を告発した本である。今どうなっているのか恐るべき実態が描かれている。問題は国公立大学だけではなく、私立大学にも関係してくるはずである。いまから備えておきたい。
2019年に出た佐藤郁哉先生の『大学改革の迷走』は、そんな大学の現場で疲れ果てている大学人が読むべき好著である。毎年の風物詩である「次年度シラバス執筆」、PDCAサイクルの現実、大学現場の面従腹背と過剰同調、大学政策の「無責任の体系」等々。読んでいて「溜飲の下がる」思いである。478ページの大著であるが、読み始めると止まらない。
大学「改革」現場の中で奔走さ(せら)れている人に是非一読を進めたい。その原因がどこにあるか、しっかりと理解できる好著である。
東京新聞社会部記者・望月衣塑子さんに学ぶ

東京新聞社会部・望月衣塑子記者の執筆・共著になる3冊の本を読みました。「同調圧力」「出る杭は打たれる」という厳しい状況の中で、権力を監視するという記者の矜持を大切にして使命を実践する彼女の生き方に共鳴しました。これからも頑張ってほしいと思っています。同時に、集団の「同調圧力」が強まる中で、個人の主体性を発揮して生きることが難しくなっている世の中ではないでしょうか。望月さんが必死に闘っている記者の矜持は、集団が同調を求める中いかに自分を大切にするかという問題でもある。「これって教育の課題でもあるなあ~」と思いつつ読みました。