教育問題・大学論

児童虐待問題のとらえ方
 社会の、教育問題や子育てに対する影響を考える時に、最も典型的な例が児童虐待である。児童虐待は、一見すると非常に単純な問題にみえ、「白黒」「善悪」がはっきりみえるように思える。
 例えば、ある虐待事件の例。「無職の男が酒を飲んで、血の繋がっていない内縁の妻の連れ子に暴力を振るい、瀕死の重症を負わせて、近隣住民の通報によって警察に逮捕された」という事件。こういう例では、おそらく誰もが「共謀な男=悪」と受け取るはずである。
 しかし、このニュースでは何一つとして問題点が浮き彫りになっていない。
 先日、ある大学の講義でこの例を使用して、「問題の本質に迫るためには、『何故』という問いをぶつけていく必要がある、それが学問の入り口であり、教育学を学んでいく一歩となる」と講義した。
 先の事件では、例えば、次のような問題点を解明する必要がある。「何故、男性は無職だったのか」「何故、酒を飲んでいたのか」「何故、内縁の妻と出会い血縁の無い子どもと同居していたのか」「子どもに暴力を振るっていた時、母である妻は何をしていたのか」「何故、母親は男から子どもを守れなかったのか」「男の、こうした暴力は日常的だったのか」「日常的だったとすれば、母親は何故子どもをつれて逃げることをしなかったのか」等々。
 虐待・子どもへの暴力は、絶対に許されないとしても、こうした「何故」という「問い」は、この事件・児童虐待の本質に迫る問いの立て方であるはずである。例えば、調査の中で、こうした「問い」に対し、「男性が職を探しても得られない事情があった」「一家が貧困な状態にあった」とする。「暴力は凄まじく、妻は男に完全に支配されていた関係だった」とする。「この男自身も成長過程で親から凄まじい虐待を受けていた」とする。
 そうすると「共謀な男=悪」という構図は見直しを迫られ、加害者である男に被害者性を見いだす必要が出てくる。
 児童虐待問題は、社会の多様な要因をそこに含み込んでいることは確かである。
 社会の多様な要因が、学校を経ずに、崩壊した家庭を経由してストレートに子どもたちに持ち込まれることも確かなのである。
 言い換えると、健全な家庭生活を営むことがいかに子どもに取って大切なのかを知ることになるのである。
 2022年度の私のゼミは、石井光太さんの名著を検討する予定である。