研究活動

2019年9月から2020年3月までの研究活動

2019年9月から2020年3月までの研究活動は以下の通りです。

(1)9月28日・29日に開催された教育史学会大会第63回大会に参加しました。午前中に分科会の司会を努めてきました。前日の理事会・中等教育史研究会に参加しました。

(2)論文「地域からの義務教育成立史の考察─山形県を事例にして」(大東文化大学紀要・第58号掲載)が刊行されました。

(3)論文「『地域と学校』関係再考─高校を中心に」を『中等教育史研究』第27号(2020年4月刊行予定)にまとめました。

(4)なかなか進みませんが、山口県の防長教育会成立史の史料整理、「きけわだつみのこえ」に関する論文等を読みすすめました。

(5)2020年度科研費・基盤研究B「義務教育制度成立過程における就学構造の研究-地域史的アプローチ」にエントリーし、結果は4月1日に発表され、採択されました。

(6)この時期の史料調査は以下のとおりです。山形県山形市(10月16日~17日)、福島県郡山市安積高等学校(10月25日~26日)、福島県福島市(11月8日~9日、2020年2月27日~28日)、北海道札幌市・小樽市(11月12日~14日)、秋田県秋田市(11月29日~30日)、長野県長野市(12月6日~7日、2020年1月30日~31日)、和歌山県和歌山市・三重県津市(12月10日~12日)、栃木県宇都宮市(12月20日~21日)、岩手県盛岡市(2020年1月10日~11日)、鹿児島県鹿児島市・宮崎県宮崎市(2020年1月23日~25日)。それぞれ現地の県立図書館・市立図書館・博物館で調査してきました。

我が家の木瓜(ボケ)の花が満開です。

我が家の庭の木瓜(ボケ)の花です。ちょうど今満開です。

2020年度卒業証書授与式での挨拶(の予定だった)文

昨日は今年度の卒業式の予定日でした。この日、私も4年に及ぶ学科主任として最後の挨拶をする予定でした。
卒業証書は、卒業生に郵送で送られるとのことでした。それではあまりに機械的で、一生に一度の卒業生にとっては冷たい対応になると思い、学科主任としての卒業生へのお祝いの言葉を印刷して同封させていただきました。以下掲載します。

御卒業を心からお祝いします。  教育学科主任・荒井明夫
新型コロナウィルスの関係で、みなさんにとって一生に一度となる卒業式・卒業証書授与式が中止になってしまいました。みなさんもさぞ残念だと思います。私も、お一人お一人に卒業証書を手渡しできないことを本当に残念に思います。
せめて私の「思い」をお伝えしたくてこの一文を書きました。
卒業生のみなさん。御卒業おめでとうございます。心よりお祝い申し上げます。また、みなさんがこれまの教育学科、所属のゼミ、教育学会関係団体などで4年生として指導力を発揮してきてくれたことに対しても心から感謝申し上げます。
みなさんがこの大学に入学された2016年7月、神奈川県相模原市にある県立の知的障がい者福祉施設「津久井やまゆり園」で、入所者19人が刺殺され入所者・職員計26人が重軽傷を負わされた事件が発生しました。同園の元職員である植松聖被告が逮捕され、公判が本年1月から始まり、3月16日には横浜地方裁判所で死刑判決が言い渡されました。事件は、発生前の被告の行動から、公判中に至るまで、全てが異様な展開を示していました。
この事件の第一報を受けた時、「とうとう起きた」という印象をもちました。「まさか!」と思わなかった自分自身に慄然とする思いです。なぜならば、日本社会の、日本人一人一人の中に、「人間に対する見方」「人の命に対する見方」の軽さが蔓延しているように思えてならないからです。この事件の根底には様々な「人間に対する考え方」「生命に対する考え方」が複雑に絡み合っています。その一つとして現代日本社会を支配している新自由主義的な人間観、生命に対する優生思想があるように思います。
人間を、なにか、心・思い・感情のある有機体としてではなく、無機質的なものとしてみる見方、つまり人間を機械かロボットとして見る見方が根底にあるように思えます。そして、人間の命へのランク付けは、差別や偏見を超えた優生思想そのものです。優生思想とは、人間の命をランク付け「生きる価値のある命」と「生きる価値の無い命」に峻別し、その上で生存の適否を決定するおぞましい考え方です。戦前のナチス・ドイツにおけるユダヤ人や障がい者への大量殺戮を想定すれば理解できるでしょう。
具体的にいうと、「価値がある人間・ない人間 」「 役に立つ人間・立たない人間 」「 優秀な人間・そうでない人間 」といった偏った考え方で人間をとらえ、人間の生命に優劣をつける考え方が優生思想です。
事件を引き起こした植松聖被告は、障がい者は生産性が無く、生きるに値しない、と持論を公判中でも展開していました。「 役に立つ・立たない」といった人間や生命を価値的に見ていく考え方は、いずれは自分も含めた全ての人の生存を軽視・否定することにつながっていくはずです。
「人間の価値」とか「生命の価値」とか「生きる価値」とか、そもそも人間や生命という言葉に「価値」という言葉をつなげるべきではないのではないでしょうか。人間や生命には「尊厳」という言葉のみがあっているのではないでしょうか。尊厳とは「どんなものによっても代えることができないもの・存在」と意味付けることができるでしょう。
大変残念ながら、日本の社会には今、ヘイトクライム、ヘイトスピーチ、ヘイト文書など、ヘイト・憎悪という言葉があふれています。
この「憎悪」に対して、みなさんは、教育学科で「人間のすばらしさ」を学んでこられたものと確信しています。大学で学ばれたことを基礎に、「自分を大切にし、他人を大切にし、人間を大切にしていってほしい」と思います。そしてこれからも学びを続けて行って下さい。
「生命のすばらしさ」を謳った、吉野弘さんのすばらしい詩をみなさんにお贈りして御卒業のお祝いの言葉とさせていただきます。

   『 生命 ( いのち ) は』        作:吉野 弘
生命 ( いのち ) は
自分自身だけでは完結できないように、つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは、不充分で 虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命 ( いのち ) は
その中に欠如を抱き、それを他者から満たしてもらうのだ
世界は多分 他者の総和
しかし 互いに
欠如を満たすなどとは、知りもせず 知らされもせず
ばらまかれている者同士、無関心でいられる間柄
ときにうとましく思うことさえも許されている間柄
そのように 世界がゆるやかに構成されているのはなぜ?
花が咲いている、すぐ近くまで
虻 ( あぶ ) の姿をした他者が
光をまとって飛んできている
私も あるとき
誰かのための虻 ( あぶ ) だったろう
あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない

みなさんの御卒業を心からお祝いし、今後の御健闘をお祈りいたします。        2020年3月18日

「新型コロナウィルス狂騒」の終着点

新型コロナウィルスの対応で日本中が混乱している。真摯に対応している医療関係者の尽力には頭が下がる思いである。しかし、マスクのみならずトイレットペーパーや米までも「買いだめ」が始まっているとなると、それは「狂騒」だと思うのは私一人ではないだろう。
ところで、この「狂騒」の中で「人権侵害」が至るところで起こっていることが気になる。例えば、2月27日の安倍首相による突然の「3月2日からの学校一斉休校要請」などは端的にそのことを示したといえる。27日に唐突の「一斉休校」を要請すれば、現場の混乱は予想できるはずだ。本来学校が担うはずの「子どもの学ぶ権利保障」が突然奪われてしまう。首相の唐突な「一斉休校要請」には「子どもの学ぶ権利をいかに保障するか」という視点が全くみられない。「子どもの生命と健康を最優先している」という反論があるかもしれない。それはそれで大切なことだが、今日本全国で広がっている事態は「子どもの学ぶ権利」が奪われていることへの戸惑いと混乱である。
3月の学校は、一年間の締めくくりとして多様な学びの総括イベントを用意している。卒業式はもちろん、学習成果発表会・期末テスト・教員の評価活動である。安倍首相の一方的要請は、こうした活動を最大限に尊重するという視点を全く欠落させている。
「子どもの生命と安全を最優先する」名目で「子どもの学ぶ権利」を奪った形になっている。
これは戦争中の「国家利益のための人権制限」を彷彿とさせる。いいかえるとこの問題を、人権制限・改憲へのステップにしようとしてるのではないかと思われるのである。
考えてみると「一斉休校要請」は、首相による「緊急事態による人権制限」への布石なのではないか。「新型コロナウィルス狂騒」を利用し、まともに政治的対策を採らないばかりか、改憲への政治的道具にしようとしているのではないか。例えば、1月28日衆議院予算委員会での日本維新の会・馬場幹事長の質問「『このようなことがあったから緊急事態条項を新設しなければならないのだ』という議論を活発に行えば、国民の理解も深まるのではないか」とする誘導質問に対し、安倍総理は「今後想定される巨大地震や津波等に迅速に対処する観点から憲法に緊急事態をどう位置付けられるかは大いに議論すべきものだ」と答弁している。また、自民党の伊吹文明元衆院議長も1月30日に二階派の会合で「緊急事態に個人の権限をどう制限するか。憲法改正の大きな実験台と考えた方がいいかもしれない。」と語っている。
与党の政治家たちは、こうした新型コロナウィルスの国民的「狂騒」を煽って、自らの改憲へ煽動しようとする意図が透けてみえてくる。
だとするならば、そうした問題の本質のすり替えを許さない、冷静な眼とこの問題に対する真剣な政治の対応を求める国民的世論を高めなければならないと思うのである。

7年ぶりのゼミ再開・2020年度荒井ゼミ第一回

7年ぶりとなる新・荒井ゼミ。2020年度第一回「顔合わせ会」が開催されました。9名の3年生全員が集合し、自己紹介・今後の方針を交流しました。

緊張した中でもしだいに和らいでいきました。ゼミの活動の様子はこのHPの「演習」「研究指導」「学生ブログ」で発信していきます。

これからどうぞよろしくお願いします。

学生諸君のレポートに学ぶ

2019年度の講義と学生レポートに対する評価が終わった。
今年度後期の講義科目「学校教育特別研究」の課題である学生諸君のレポートはとても面白かった。学生諸君がどのように問題を捉え考えているかがよく理解できたからである。この講義は、「子どもの貧困から教育を捉える」というテーマで15回の講義である。最初の2回は日本の貧困の特徴として「みえにくいこと」と「母子家庭に貧困が集中していること」を多様なデータを用意して講義する。次に、乳幼児・小中学校の学齢児童・学校給食問題・高校生のアルバイト・大学生の高学費と奨学金、と発達段階に即して貧困の問題を取り上げる。最後は、日本国憲法の理念に照らして、具体的な解決策を探ることにしている。
講義で私が重視しているのは多くのデータを用意して説得的に展開することである。
そしてレポートの課題は、受講した学生諸君が最も関心のあるテーマを選択し、講義で使用したデータを用いて貧困問題がどのような教育問題にリンクするかを解明し、さらに貧困克服の方策を具体的に提言するというものであった。
学生諸君のレポートを熟読するのに数日かかったが、実に面白かった。
以下、数人の学生が同じように指摘してきた意見を匿名にして紹介する。
まず第1は、改めて自分の恵まれた環境に気づき、自分の親へ感謝する意見である。
(Aさん)
「日本の貧困問題について知らないことが山ほどあった。私自身の今まで生活してきたことはすごく恵まれていることであり、心から親に感謝しようと思う。毎日一生懸命、両親は働いていた。幼かった頃は、帰りが遅い両親に対して、とても寂しい思いをしていたが、今考えると、ありがたいものばかりであった。21歳となった私は、親孝行をきちんとしようとこの授業を踏まえてさらに思った。」
第2は、大学生を取り上げることで自分に重ねて講義を聴いた学生が多かったという点。
(Bさん)
「私は、大学生の貧困問題について触れられていたことがとても興味深く新鮮でした。他の講義で、小学校~高校までの貧困については良く触れられることも多いのですが、自分が受けてきた講義で大学生の問題について触れるのは初めてでした。自分に思い当たる節がいくつもあり自分はより恵まれていて、行動に移さなければいけないという危機感も感じました。半年の間、とても良い勉強ができました。」
第3は、学生諸君なりの「貧困克服対策」が非常にリアルで面白かったという点。講義では「貧困対策として消費税増税は必要か?」と提起。増税よりも税金の使途に問題があるのではとしていくつかの事例を講義した。
すると学生諸君はもの凄く多様な意見を展開してくれた。次のような意見などは政治家にも読ませたい内容である。
(Cさん)
我々が払う税金の使い方を検討しなおすという策だ。現在、沖縄県名護市辺野古の米軍基地建設に伴う警備に計326億円を費やす。1日に換算すると1375万円を警備につかう。新基地警備に反対する市民運動の監視・弾圧のための警備員配置であるが、実際には一日80~100人ほどがローテーションで立っているだけで税金の無駄遣いである。また、日本の貧困対策に使われる金額が330億円とほぼ同額である。326億円をドブに捨てている状態ならばそのお金を貧困対策に充てるべきである。また、アメリカ戦闘機F35Aを3機分買うお金と認可保育所221か所建つ金額が同じであることから、戦闘機を買う個数を減らし、その浮いたお金を使い保育所を建てることができる。いつあるかわからない戦争への資金投資よりも今、困窮する待機児童問題を解決するために国は資金を投資するべきである。私たち国民が払う税金は国民のために使われるべきものであり、現在抱える日本の問題を少しでも改善できるようにするためのお金である。
講義の中で以上のような貧困対策を考えた中で、私は皇位継承にかかる費用を考えた。2019年に新たな「令和」という時代が始まったが、元号と天皇が変わったことしか変化はない。しかし、皇位継承で様々な伝統的儀式や行事、宴会が行われ、それにかかる費用も税金で賄われる。皇位継承にかかる費用は総額166億円とされ前回よりも3割増加した。最も行事・儀式が集中する2019年度は144億円かかるとされた。私は、天皇が変わっただけでお祭り騒ぎになることが不思議である。皇位継承に伴う数多くの行事や儀式を2,3個減らし、その分のお金を子どもの貧困対策にまわすことをしてほしい。例えば、饗宴の儀とよばれる祝宴に4億6000万円の費用が発生する。また、儀式に招待する外国から賓客の滞在費を外務省は50億円を計上した。さらに警備関係費が38億円余りとされる。これらを廃止・縮小するだけで、公立小学校の学習費の約半数を占める給食費を少なくすることができる。文部科学省によると平成30年度の小学生の数は約642万人であるため約70億あれば給食費を1/4減らすことができる。
などなど。
わずか3本のレポートしか紹介できないが、こうしたレポートからまた来年度の講義へのエネルギーを頂戴している。学生諸君に心から感謝し、同時に学生諸君にアッパレ!!である。

2つの「ベートーヴェン交響曲全集」について。

今年、2つの「ベートーヴェン交響曲全集」が発売された。それを聴いた感想をまとめたい。

一つは、アンドリス・ネルソンス指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の全集(写真上)である。指揮するアンドリス・ネルソンスは1978年生まれでラトビア共和国出身の指揮者。新世代指揮者のホープである。すでに今年、1972年生まれのキリル・ペトレンコが、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に就任した。指揮者界は世代交代が続いている。私は、約10年前にアンドリス・ネルソンス指揮のウィーン・フィルでドヴォルザーク「新世界」を聴いてその美しさに感動したのでこの指揮者に注目していた。彼の指揮する「ベートーヴェン全集」だが、しっかりした骨格のベートーヴェンで、最近の流行りの「超快速」(最近演奏会で演奏されるベートーヴェンはどれもみな超快速である)のベートーヴェンではない。特に、第三、第五、第九はがっしりとした落ち着きのある演奏で、第六も美演である。彼のような若い指揮者がこうしたベートーヴェンを聞かせてくれるのはなんとも嬉しい。

もう一つは、オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団の全集(写真下)である。しかもBlue-raydiskで、以前クラシック音楽専門のクラシカ・ジャパンで放映されたものであるから、クレンペラーファンにはたまらない。クレンペラー晩年(1973年没)の1970年の演奏で、雄大なスケールの演奏である。私は、クレンペラーをはじめとする1950年代に活躍した、フルトヴェングラーやヘルマン・アーベントロートなどの第九を愛聴盤としているが、クレンペラーの第九ももちろんその中に含まれる。クレンペラーの演奏は、どの曲もどっしりとしてテンポはやや遅めであるが、それがなんとも言えない風格を醸し出している。

今年の年末はこの2つの「ベートーヴェン全集」を楽しむことにする。

2019年4月-9月までの研究活動

2019年4月から9月までの研究活動は以下の通りです。

(1)5月25日・26日に全国地方教育史学会大会を大東文化大学・大東文化会館で開催しました。詳細は「荒井明夫ブログ゙」をご覧下さい。シンポジウムのテーマを「地域と学校」と設定し趣旨説明をおこないました。このテーマを発展させて、現在は論文を執筆中です。

(2)論文「地域からの義務教育成立史の考察─山形県を事例にして」(大東文化大学紀要・第58号掲載予定・2020年3月刊行予定)を執筆しました。山形県の就学告諭・就学督責規則・就学規則を整理し歴史的意義を論じました。

(3)共同研究である第2回就学史研究会を7月21日に大東文化会館で開催しました。

(4)同じく共同研究であり、私が代表を努める中等教育史研究会例会(9月27日・静岡大学)および、教育史学会(9月27日理事会・28日~29日大会)に参加しました。

(5)なかなか進みませんが、山口県の防長教育会成立史の史料整理、「きけわだつみのこえ」に関する論文等を読みすすめました。

(6)8月5日(月曜日)と8月9日(金曜日)に「教員免許更新時講習」として「学校をめぐる近年の状況の変化─「道徳の『教科化』を題材にして道徳を考える─」を講義しました。

(7)この時期の史料調査は以下のとおりです。青森県弘前市(4月24日~26日)、福島県会津若松市・喜多方市(5月27日~29日、8月22日~24日)、長野県松本市(6月28日~29日)、栃木県宇都宮市(7月5日~6日)、山形県山形市(7月24日~25日)、島根県松江市(8月26日~28日)、山口県萩市(9月12日~14日)。それぞれ現地の県立図書館・市立図書館・博物館で調査してきました。

 

第一次小学校令下・福島県就学規則

福島県立図書館所蔵『福島県私立教育会雑誌』所収の、第一次小学校令下での「福島県就学規則」です。

福島県立安積高等学校を訪問
本年10月、福島県立安積高等学校を久しぶりに訪問しました。明治期の福島県立尋常中学校です。大学院生時代以来の数十年ぶりの訪問です。同校が所蔵する明治期の教科書は種類も数も豊富で一見の価値があります。東日本大震災で被災したと聞いて心配していましたが、立派に再建されていました。関係者の御苦労がわかります。充実した時間を過ごすことができました。このHPの「史資料」欄の写真も安積高校所蔵史料中の明治期教科書の写真です。