教育問題・大学論

ロシア軍によるウクライナへの軍事侵攻に断固として抗議する。
ロシア軍がウクライナに軍事侵攻した。どのような理由・理屈も成立しない。直ちにロシア軍はウクライナから撤兵すべきだ。
ロシア軍は、世界の世論に反して、2月24日に軍事行動に踏み切り、ウクライナへ軍事侵攻した。「平和維持」「ロシア人の保護」が目的である。この背景には複雑な歴史事情があることは理解している。
しかし、だからと言って武力行使が認められることは絶対ありえない。「理由があれば暴力が許される」となるからだ。ロシアの人、世界中の人、私たち日本の大人たちが、それを子どもに説明できるのだろうか。2022年2月に生じたロシアの軍事行動で全く罪も無い人々が数百人も殺され、傷つけられたのだ。そのことを私たちは次世代の子どもたちに伝えることができるのだろうか。今こそ、世界中で「戦争反対」の声を起こすべきである。
同時に私たち日本人が教訓とすべきことを思い起こす。今回の軍事行動が「平和維持」という理由だったことだ。「平和維持」「自国の防衛」のため「軍隊が必要」「戦争はやむを得ない」という理屈は、やはり単なる「屁理屈」だということでしかない。今回のロシアの軍事行動をみれば理解できる。
かつて、評論家の故加藤周一先生が「九条の会」の講演会で「平和の維持のために何が必要でしょうか?平和の維持のために軍隊=戦争が必要なのか?そうではないでしょう。平和のためには軍隊と戦争は不必要なのです。」と喝破された。今、私たち世界の、そして日本の、大人たちは子どもたちに対して「どのような状況であっても戦争はダメ・暴力は絶対ダメ」を主張すべき時なのである。
あらためて繰り返したい。どうな状況であれ、どんな事情であれ、ロシア軍は直ちにウクライナから撤兵し、罪の無い人々の生命を奪う行為を即時中止すべきだ。「戦争大反対」である。
今こそポスト・コロナ、ウィズ・コロナの教育を考える時である。

「コロナ禍の最中なのにポスト・コロナを語るとは不謹慎」と怒られそうであるが、「闘いの最中にあって『戦後』を展望しておく」ことは歴史の教えるところでもある。戦後の設計は、戦中からなされていた。だとすればこの2年間に及ぶ「コロナとの闘い」から我々は何を教訓として受け止め、ポスト・コロナに引き継いで行くべきなのだろうか。

苅谷剛彦氏は「新型コロナウィルスがもたらす危機が私たちの『日常』に変更を迫る深刻さ」を直視し、「地に足を着けた教育論議の必要」を強調する。その中で「大学がどのような教育と学習を提供するかできるか」に問題を収斂させる。大学教育の問い直しによって「コロナ禍は、日本社会が築き上げてきた学問や教育の強靱さ・しなやかさ(resilience)を試す機会」であるととらえている。

『中央公論・22年2月号』は、アフターコロナの大学論を8大学のトップにインタビューした記事があり面白かった。コロナ禍で直面した困難・苦労は当然大学により異なっているが、「オンライン授業」を簡単に全面的に否定するのではなく、その長所を見据え「知の伝達」における学習効果をしっかり見据え、コンピテンシーをどのように育成するかを真剣に考えている点などはかなりの大学で共通しているようだ。その場合、学問の教授を「授業」という狭い枠内だけで捉えるのではなく、部活動やサークル活動を位置づけ直し、こうした課外活動を「正課外活動」と位置付ける関西学院大学の取り組みなどは参考になった。

我が大東文化大学は板橋校舎と東松山校舎の2つのキャンパスに分かれていることがデメリットであると捉えられてきた。実際、キャンパス間の移動が一時間以上かかることをみれば、学生諸君のカリキュラム履修制限がある。実際、1限に板橋校舎の授業を受け、2限に東松山校舎での授業を受けることは不可能である。学生諸君にはデメリットでしかない。しかし「オンデマンド型授業」の経験を導入することで両校舎の距離はなくなり、移動時間が省略できる。学生にとっては極めて有効かつ効果的にカリキュラムを構築できるのではないかと考える。「オンデマンド型授業でできること」「オンデマンド型ではできずに対面型で実現できること」をいまこそしっかり総括すべき時である。