荒井明夫ブログ

我が家の木瓜(ボケ)の花が満開です。

我が家の庭の木瓜(ボケ)の花です。ちょうど今満開です。

2020年度卒業証書授与式での挨拶(の予定だった)文

昨日は今年度の卒業式の予定日でした。この日、私も4年に及ぶ学科主任として最後の挨拶をする予定でした。
卒業証書は、卒業生に郵送で送られるとのことでした。それではあまりに機械的で、一生に一度の卒業生にとっては冷たい対応になると思い、学科主任としての卒業生へのお祝いの言葉を印刷して同封させていただきました。以下掲載します。

御卒業を心からお祝いします。  教育学科主任・荒井明夫
新型コロナウィルスの関係で、みなさんにとって一生に一度となる卒業式・卒業証書授与式が中止になってしまいました。みなさんもさぞ残念だと思います。私も、お一人お一人に卒業証書を手渡しできないことを本当に残念に思います。
せめて私の「思い」をお伝えしたくてこの一文を書きました。
卒業生のみなさん。御卒業おめでとうございます。心よりお祝い申し上げます。また、みなさんがこれまの教育学科、所属のゼミ、教育学会関係団体などで4年生として指導力を発揮してきてくれたことに対しても心から感謝申し上げます。
みなさんがこの大学に入学された2016年7月、神奈川県相模原市にある県立の知的障がい者福祉施設「津久井やまゆり園」で、入所者19人が刺殺され入所者・職員計26人が重軽傷を負わされた事件が発生しました。同園の元職員である植松聖被告が逮捕され、公判が本年1月から始まり、3月16日には横浜地方裁判所で死刑判決が言い渡されました。事件は、発生前の被告の行動から、公判中に至るまで、全てが異様な展開を示していました。
この事件の第一報を受けた時、「とうとう起きた」という印象をもちました。「まさか!」と思わなかった自分自身に慄然とする思いです。なぜならば、日本社会の、日本人一人一人の中に、「人間に対する見方」「人の命に対する見方」の軽さが蔓延しているように思えてならないからです。この事件の根底には様々な「人間に対する考え方」「生命に対する考え方」が複雑に絡み合っています。その一つとして現代日本社会を支配している新自由主義的な人間観、生命に対する優生思想があるように思います。
人間を、なにか、心・思い・感情のある有機体としてではなく、無機質的なものとしてみる見方、つまり人間を機械かロボットとして見る見方が根底にあるように思えます。そして、人間の命へのランク付けは、差別や偏見を超えた優生思想そのものです。優生思想とは、人間の命をランク付け「生きる価値のある命」と「生きる価値の無い命」に峻別し、その上で生存の適否を決定するおぞましい考え方です。戦前のナチス・ドイツにおけるユダヤ人や障がい者への大量殺戮を想定すれば理解できるでしょう。
具体的にいうと、「価値がある人間・ない人間 」「 役に立つ人間・立たない人間 」「 優秀な人間・そうでない人間 」といった偏った考え方で人間をとらえ、人間の生命に優劣をつける考え方が優生思想です。
事件を引き起こした植松聖被告は、障がい者は生産性が無く、生きるに値しない、と持論を公判中でも展開していました。「 役に立つ・立たない」といった人間や生命を価値的に見ていく考え方は、いずれは自分も含めた全ての人の生存を軽視・否定することにつながっていくはずです。
「人間の価値」とか「生命の価値」とか「生きる価値」とか、そもそも人間や生命という言葉に「価値」という言葉をつなげるべきではないのではないでしょうか。人間や生命には「尊厳」という言葉のみがあっているのではないでしょうか。尊厳とは「どんなものによっても代えることができないもの・存在」と意味付けることができるでしょう。
大変残念ながら、日本の社会には今、ヘイトクライム、ヘイトスピーチ、ヘイト文書など、ヘイト・憎悪という言葉があふれています。
この「憎悪」に対して、みなさんは、教育学科で「人間のすばらしさ」を学んでこられたものと確信しています。大学で学ばれたことを基礎に、「自分を大切にし、他人を大切にし、人間を大切にしていってほしい」と思います。そしてこれからも学びを続けて行って下さい。
「生命のすばらしさ」を謳った、吉野弘さんのすばらしい詩をみなさんにお贈りして御卒業のお祝いの言葉とさせていただきます。

   『 生命 ( いのち ) は』        作:吉野 弘
生命 ( いのち ) は
自分自身だけでは完結できないように、つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは、不充分で 虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命 ( いのち ) は
その中に欠如を抱き、それを他者から満たしてもらうのだ
世界は多分 他者の総和
しかし 互いに
欠如を満たすなどとは、知りもせず 知らされもせず
ばらまかれている者同士、無関心でいられる間柄
ときにうとましく思うことさえも許されている間柄
そのように 世界がゆるやかに構成されているのはなぜ?
花が咲いている、すぐ近くまで
虻 ( あぶ ) の姿をした他者が
光をまとって飛んできている
私も あるとき
誰かのための虻 ( あぶ ) だったろう
あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない

みなさんの御卒業を心からお祝いし、今後の御健闘をお祈りいたします。        2020年3月18日

「新型コロナウィルス狂騒」の終着点

新型コロナウィルスの対応で日本中が混乱している。真摯に対応している医療関係者の尽力には頭が下がる思いである。しかし、マスクのみならずトイレットペーパーや米までも「買いだめ」が始まっているとなると、それは「狂騒」だと思うのは私一人ではないだろう。
ところで、この「狂騒」の中で「人権侵害」が至るところで起こっていることが気になる。例えば、2月27日の安倍首相による突然の「3月2日からの学校一斉休校要請」などは端的にそのことを示したといえる。27日に唐突の「一斉休校」を要請すれば、現場の混乱は予想できるはずだ。本来学校が担うはずの「子どもの学ぶ権利保障」が突然奪われてしまう。首相の唐突な「一斉休校要請」には「子どもの学ぶ権利をいかに保障するか」という視点が全くみられない。「子どもの生命と健康を最優先している」という反論があるかもしれない。それはそれで大切なことだが、今日本全国で広がっている事態は「子どもの学ぶ権利」が奪われていることへの戸惑いと混乱である。
3月の学校は、一年間の締めくくりとして多様な学びの総括イベントを用意している。卒業式はもちろん、学習成果発表会・期末テスト・教員の評価活動である。安倍首相の一方的要請は、こうした活動を最大限に尊重するという視点を全く欠落させている。
「子どもの生命と安全を最優先する」名目で「子どもの学ぶ権利」を奪った形になっている。
これは戦争中の「国家利益のための人権制限」を彷彿とさせる。いいかえるとこの問題を、人権制限・改憲へのステップにしようとしてるのではないかと思われるのである。
考えてみると「一斉休校要請」は、首相による「緊急事態による人権制限」への布石なのではないか。「新型コロナウィルス狂騒」を利用し、まともに政治的対策を採らないばかりか、改憲への政治的道具にしようとしているのではないか。例えば、1月28日衆議院予算委員会での日本維新の会・馬場幹事長の質問「『このようなことがあったから緊急事態条項を新設しなければならないのだ』という議論を活発に行えば、国民の理解も深まるのではないか」とする誘導質問に対し、安倍総理は「今後想定される巨大地震や津波等に迅速に対処する観点から憲法に緊急事態をどう位置付けられるかは大いに議論すべきものだ」と答弁している。また、自民党の伊吹文明元衆院議長も1月30日に二階派の会合で「緊急事態に個人の権限をどう制限するか。憲法改正の大きな実験台と考えた方がいいかもしれない。」と語っている。
与党の政治家たちは、こうした新型コロナウィルスの国民的「狂騒」を煽って、自らの改憲へ煽動しようとする意図が透けてみえてくる。
だとするならば、そうした問題の本質のすり替えを許さない、冷静な眼とこの問題に対する真剣な政治の対応を求める国民的世論を高めなければならないと思うのである。